|
前回の日記をUPしてしばらく後、なにげなくネットしてたら、さるライトノベル情報サイトに新刊告知として こないだの日記が紹介されていて驚きました。 しかも、なにげなく書いたキャラ紹介や裏話の件についても、アップされるそうです、と思い切り明言されてるし。 いえ、こういうサイトで取り上げてもらえるのは、とてつもなくありがたいことだと思っていますよ。 これも当日記の影響か、公式ページのほうにも、なばほ先生のラフ画がUPされています。 http://www.tokuma.co.jp/edge/05news.html#_080616b キャラ同士の和気藹々としたノリのよさを巧みに描いていただき、作者としても楽しく拝見しました。 拙作(のラフ)を取り上げてくれた編集さんにも感謝です。 前にも少し書きましたが、一巻はシリアスにまとめすぎた分、キャラの掛け合いなども抑え気味になったもので、 今回は、作者なりに軽妙さも増量してみたつもりです。キャラ描写含めて楽しんでいただければ幸いです。 というわけで、なんだかんだでもう書店に並んでいる頃になってしまいましたが、今回は公約通り、 「シャドウ・リンカーズ」の作品解説など、語ってみましょう。 お読みいただければ一目瞭然でしょうが、この「シャドウ・リンカーズ」シリーズ、一言でいえば、 異能力者による現代版「必殺シリーズ」です。 一巻時の出発点は、まずヒロインの能力のアイデアが中核にあり、それを生かして単純なパワーバトルではない 立体的なアクションを描けないか、という発想でした。 構想段階では、マンガ原作かライトノベルを想定していたこともあり、たとえば異世界ファンタジーでも、 近未来SFアクションでもよかったわけですが、やはり、元々が必殺者でミステリ好きという私の体質から、 現代が舞台の必殺にミステリ要素を交える、という形になってきました。 で、現代社会に能力者が存在する世界観設定や、能力設定を生かしたプロット、それなりに物理的、科学的な 説明がつく異能力や超感覚に、武術などを組み合わせた主役側の能力設定などを組み立てていきました。 異能力について、初稿では一般的なライトノベル感覚だったこともあり、秘める身体能力の延長ぐらいのイメージで、 細かい考証はあえて廃していたのですが、徳間書店の編集さんから、もう少し能力に現実味ある理論がほしい、 という注文と共に、田中聡さんの「巧の技」(徳間文庫)という本を送っていただきました。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198923965 一読して、実在するその道のプロの方々が、私の想像などよりはるかに凄い「異能」を発揮していると知り、 目からうろこが十数枚ぐらい落ちて、イメージが一挙に広がりましたね。 甲野善紀先生を知ったのもこの本がきっかけで、編集者かくあるべしと思いました。 (島田荘司さんや有栖川有栖さんの名前すら知らんくせに、推理コミックを題材にミステリ云々を講釈してのけた どっかの廃刊誌担当者に見習わせたいですな(苦笑)) 物語のバックボーンとなる組織の設定は、現代社会に異能者が紛れこんでいる、という世界観を成り立たせるため だったのですが、闇に潜む異能者という設定は、必殺シリーズにおける、普段は一般人として巷間に生きる 闇の仕事師(もちろん中には外道もいる)のイメージもあります。 また、主人公側だけでなく、異能者たちが、現代社会の特性に、己の異能を絡めて暗躍する様を描くことで、 現代というものを浮き彫りにできないか、という考えもあります。 小説にコミック的な世界観を導入し、現実から離脱したぶっとびワールドを思う存分描けるのはライトノベルの 特徴ですが、反面、若年層向けなこともあり、時代性、現実性を交えた重めのテーマを描きにくい面もあります。 その点、トクマEdgeさんは、ライトノベル色に、現実的な題材や重みのあるテーマ性を交えることで、 いわゆる一般向け小説でも、通常のライトノベルでも描けない、現実と非現実の二河白道をゆけるのではないか、 という意味で期待しています。 そもそも、「必殺シリーズ」自体、当時の時代性を色濃く反映した作品です。 私自身、古くからのファンだけに「必殺シリーズ」にはこだわりがあり、本作を書くにあたっては、 現代で必殺をやるにはどうすればいいか、現代を舞台に違和感なく必殺テイストを出すにはどうすればいいか、 さらには、元の必殺にすらない、現代でしか描けない必殺的テーマとははなにか、など、いろいろ考えました。 (アホ(by石原興監督)な必殺マニアにとって、こういうことを考える自体がけっこう楽しいのです) やはり時代劇と現代で一番違うのは、さまざまな意味で「殺し」の重さが段違いという点でしょうか。 現代だと、まず警察の捜査能力が高すぎて、安易な殺し方では即座に犯人を突き止められます。 また、たとえ悪人とはいえ、現代社会の「殺人」は生々しすぎて、カタルシスより嫌悪が先立つ恐れがあります。 たとえば「三匹が斬る!」(これはこれで大好きな時代劇のひとつです)のような痛快娯楽に徹して、 殺人を殺陣と割り切ってカラッと描く方向もあるのですが、そうなると、やはり重み、深みに欠ける。 翻れば、必殺の魅力もそこにあります。 通常の時代劇なら、悪を葬るカタルシスの源である殺陣シーンを、あくまで「殺しは殺し」としてシビアに捉える。 といって、殺しの描写を過度に生々しくもせず、どこか劇画的で奇想天外、かつ華麗な映像にすることで、 殺しの重さを描くドラマ性と、映像による面白み、悪党退治の痛快娯楽を、絶妙のバランスで並立させて 軽すぎず重すぎず、奥行きのある作風を作り上げた、それが必殺シリーズの、大きな魅力のひとつです。 元祖「必殺」に比べて、とりようでは生ぬるくも思える、拙作の「殺しを果たすのは秋彦のみ」という設定ですが、 むしろイノセントな目線から、殺しに対する感覚の落差を描くことで、殺しの重さを強調する狙いもあります。 秋彦の「斬殺」描写を、あえて凄惨に描いているのも、そういう意図からです。 時代性――というのも大きな要素ですな。 シリーズ初期の1970年代当時、まだまだ世間はタテマエ社会で、権威あるお上や大手マスコミの主張が、 一般的良識、すなわち「正義」としてまかり通り、力なき庶民が異を唱えるなど不可能に近いことでした。 そこに、「この世の正義も当てにはならぬ」を標榜し、生身の人間として、己の欲得も肯定しつつ悪を葬る、 「本音のドラマ」必殺が、良識派からは反発を受けながらも、強烈なインパクトを持ちえたわけです。 一方で、この(当時の)公序良俗を挑発するが如き「悪を葬る側もまた悪」のスタイルが、もっともらしい正義の 裏にある矛盾や、たとえ悪に対する報復であっても、人が人を殺すことの本質的矛盾をも描き出すことにもなり、 いわゆる前期必殺独特のテーマ性、ドラマ性にもつながったわけです。 もっとも、この挑発的スタイルも、80年代には市民権を得てしまい、良くも悪くも、お茶の間の視聴者たちが、 表は同じ庶民の仕事人たちに仮託して、世の憂さを晴らす痛快娯楽、いわゆる後期作になっていったわけですが。 ままならぬ現実のガス抜きを果たすファンタジー――これは必殺に限らず、娯楽作品全般に通じる機能です。 ただ、昭和の権威主義的なタテマエ良識も崩壊し、いまやインターネットで万人が全世界に意思を発信可能、 一庶民では歯が立たない強大な権威(裏返せば巨悪にもなりうる)も成り立ちにくくなっている現在では、 70年代、80年代の必殺のありかたも、また成立しにくくなっています。 よく必殺ファンの意見として、必殺を復活するなら、前期作のようなハードなドラマ性を、と聞きます。 私も気持ちはわかるのですが、現実に必殺を取り巻く時代、社会が一変している以上、単に前期作のスタイルを コピーするだけでは、前期作のテーマ性を再現したことにならないと思うのですよ。 悪党相手でも「殺しは殺し」であり、主人公たちは「金づくで人を殺す」という前提を、21世紀現在の人々が どう受け止めるか、主人公側の、稼業としての殺人を、受け手に納得させる物語とはどのようなものか。 作中の人物たちが、なにを思ってそんな稼業に手を染め、どんな思いで仕事を遂行してゆくのか―― そのあたりのテーマ性、ドラマ性を、「現代の」「異能者による」「ミステリ性」を交えた裏稼業ものというキーワードから、 本家必殺とは一味違うアプローチで出してゆければなあ、と思っています。 さらにいえば、このあたりが、昨年、15年ぶりに帰ってきた本家必殺が、この先、本格復帰するとして、 かつてのテーマ性を損なわず、21世紀に即した作品として蘇るための重要な鍵ではないかと思うのですが―― 一杯やりつつそんなことを考えていると――ああ、ゾクゾクしてきた、生きてるってえのも満更じゃあねえな、 なんて思ってしまうアホ、それが私です。 ……なんか自作解説というより、すっかり必殺語りになってしまいましたね。(苦笑) なにはともあれ、どうか「シャドウ・リンカーズ 妖し殺めし幻ノ女」よろしくお願いします。
|
| << 前記事(2008/06/06) | トップへ | 後記事(2008/06/19)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2008/06/06) | トップへ | 後記事(2008/06/19)>> |